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東京高等裁判所 昭和55年(う)373号 判決

被告人 菅原誠

主文

原判決を破棄する。

被告人は無罪。

理由

本件控訴の趣意は、弁護人安田寿朗が提出した控訴趣意書、控訴趣意書補充書及び同(二)に、これらに対する答弁は、検察官中川秀が提出した答弁書に、それぞれ記載されたとおりであるから、これらを引用する。

控訴趣意のうち事実誤認の主張について

所論は、要するに、被告人には、原判決が認定判示するような過失はなかつたから、無罪であるというのであつて、その主たる論拠は、

1  本件事故現場付近道路の第二車線を時速約五〇キロメートルで進行していた被告人が、同車線上における本件衝突事故を避けるためには、制動距離との関係上、少くとも衝突地点の手前約二八・六五メートルの地点で被害者を発見していなければならないところ、被告人が同地点に差しかかつたころの中村晃の位置は、第四車線上にあつたとみるべきであつて、同人は、第四車線を進行してきた大型トラツクに身の危険を感じて、同所から第三車線を経て、被告人車の進行していた第二車線方向に、時速約一二・二キロのかけ足で横断してきた被告人車に衝突したものである。

2  ところで、本件事故現場付近の道路には、歩道橋が設置されて、これ以外の横断は禁止されていたうえ、最高指定速度も毎時五〇キロメートルと緩和されていたほか、深夜である当時の第一車線には、数台の車両が駐車していたから、第二車線を進行していた被告人としては、進路の左方、すなわち第一車線側からの飛び出しに注意を払うのが当然であり、右方にあたる第四車線を自車より少し前を進む形で併進していた大型トラツクの前方から、第三、第二車線方向に横切る形で飛び出してくる者のあることまで予測しないのが普通である。

3  したがつて、被告人が、本件衝突を回避するために、被害者を発見しなければならないと一応は考えられる前記の地点においても、右のような場所に歩行者が佇立していることを予見する義務はないというべきである。ましてや、この地点よりも更に進んだ地点(原判決では自車の約一五メートル前方と認定)に被害者が出現したのを発見し、急制動の措置を講じたとしても、もはや衝突の回避は、不可能となるのであるから、被告人には、何らの過失もない。

4  また、高速道路にも匹敵する本件現場の道路を運転した被告人には、被害者中村のように、無謀な飛び込みをする者がいることまで予測して、これに注意しながら運転しなければならない義務はないから、信頼の原則によつても無責である、というのである。

そこで調査するに、原審が取り調べた各証拠及び当審における事実取調の結果を総合すると、

(一)  本件事故現場となつた東京都港区芝二丁目一三番四号付近道路は、第一京浜国道と呼ばれる車道の幅員が二九メートルもある広い道路であつて、中央分離帯によつてわけられた上下各線は、いずれも四車線に区分され、被告人の進行した上り線の各車線の幅は、第一、第四車線がともに三・六〇メートル、第二車線が三・三〇メートル、第三車線が三・四〇メートルとなつていたうえ、同所付近における最高速度は、毎時五〇キロメートルと緩和指定されていたほか、本件衝突地点からわずか三・五〇メートル札の辻寄りの場所には、歩道橋が設置されて、これによる以外の横断が禁止されているという状況にあつたこと

(二)  被告人は、昭和五三年五月一九日午後一一時五二分ころ、空車のタクシーを運転して、前記第一京浜国道の上り線の第二車線を、札の辻方面から金杉橋方面に向けて同車線における先頭車となつて、時速約五〇キロメートルで本件事故現場付近に差しかかつたのであるが、その際、被告人車の両隣りにあたる第一車線及び第三車線には、いずれも被告人車と併進する車両はなく、第四車線に、被告人車よりやや前方を進む形で走行していた大型トラツクがあつたこと

(三)  被告人は、本件衝突地点の約一五メートル手前の地点まで進行したとき、右斜め前方の第三車線のほぼ中間地点付近を自車の進行する第二車線方向に、かけ足で横断する人影を発見し、危険を感じて急ブレーキをかけたものの、既に第二車線内に達していた同人、すなわち、中村晃に自車左前部を衝突させて転倒させ、これによつて、同人は、加療約八か月半を要する左股関節中心性脱臼尿道断裂等の傷害を負つたこと

(四)  ところで、右中村は、被告人車が本件衝突地点の手前約二〇ないし三〇メートルの地点まで接近するや、それまで立つていた第三車線内の第四車線寄りの位置から、被告人が中村の存在に気付いたか否かを確認することもなく、いきなり被告人車の進行していた第二車線方向に被告人車の進路をさえぎる格好で、時速約一〇キロメートルのかけ足で横断して、被告人車に衝突したものであること(詳細は後記)

以上の事実を認めることができ、これに反する原審及び当審公判廷における証人中村晃の各供述並びに同人の捜査官に対する各供述調書は、他の関係証拠に照らして措信できない。

ところで、原判決が、(罪となるべき事実)として、「被告人は、……前方左右を注視し、進路の安全を確認して進行すべき業務上の注意義務があるのにこれを怠り、前方注視不十分のまま漫然前記速度で進行したため、タクシーを停止させようとして自車進路前方右側に佇立していた中村晃(当時三九年)を約一五メートル先に、ようやく発見した過失により、自車を同人に衝突転倒させ、……」と認定判示(本件公訴事実と全く同一)したことは、原判文に照らし明らかである。そして、右判文を素直に読むと、「被告人は、自車進路前方右側に佇立していた中村に、自車を衝突させた」、と解せざるを得ないことになるが、他方、原判決の被告人及び弁護人の主張に対する判断1及び2には、中村は、三車線内の四車線寄りの位置に約一分間近く佇立していたとき、被告人車が二車線を進行してきて約三〇メートルの距離に近付いたので、左手を肩のあたりまで挙げ、指を動かして乗車の合図をしてから、すぐ小走り(歩くよりも少し早いぐらいの速度)で二車線内に出て行つた、と判示しているから、原判決の(罪となるべき事実)としての前記認定判示にかかる部分は、少くとも、衝突の地点ないし衝突の部位などについて判示しなかつた点において明確性を欠くものといわざるを得ないし、更に厳しい見方をすれば、原判決には、理由のくいちがいがあるといい得る余地もないとはいえないであろう。

しかし、この点は、しばらく措くとして、原判決が、被告人及び弁護人の主張に対する判断として、「中村が……乗車の合図をしてから、すぐに小走り(歩くよりも少し早いぐらいの速度)で二車線内に出て行つた」と認定判示する点は、前に説示した事実関係に照らすと、事実を誤認したものといわなければならない。以下若干補足して説明する。

関係証拠、とりわけ、被告人の司法警察員に対する昭和五三年五月二〇日付供述調書及び司法警察員作成の昭和五三年五月二〇日付実況見分調書によると、被告人が、斜め右前方の第三車線上に、横断する形で移動中の中村をはじめて発見したのは、同人との距離が約一五メートルに接近した地点であつて、被告人は、危険を感じて、直ちに急ブレーキをかけ、約一三・二〇メートル進んだ地点で、自車左前部を中村に衝突させ、更に約六・〇〇メートル進んで停止したこと、被告人がブレーキを踏む直前の被告人車の速度は、時速約五〇キロメートルであり、また、衝突地点の前後にわたつて残された制動痕の長さは、右が約一二・二〇メートル、左が約一三・四〇メートルであつたこと、以上の事実が認められるところ、これらの被告人車の速度、制動痕の長さ、急ブレーキ開始後、停止するまでの距離及びその間の平均速度等をもとにすると、被告人が中村を最初に発見した時点から同人に衝突するに至るまでの所要時間は約一秒であつたと推認できる。また、被告人が中村を最初に発見したときの同人の位置は、第三車線のほぼ中間地点であり、同所から衝突地点までの移動距離は、約二・八〇メートルであることのほか、この距離を移動するに要した時間が約一秒間であつたことを併せ勘案すると、中村の移動速度は時速一〇キロメートル前後であつたと推認できる。したがつて中村の移動速度は、原判決の認定するような「歩くよりも少し早いぐらい」などというものではなく、かけ足の状態にあつたと認定すべきであるから、この点に関して原判決には事実誤認があるといわなければならない。

更に、原判決は、被告人が、「進路前方に対する注視を怠らずに進行していたとすれば、遅くとも被告人車両が被害者に対し、四〇メートルぐらいの距離に近付くまでに、被害者の動静に気付くことのできる状況にあつたこと」を認定したうえ、被告人には、「自車の進路前方を注視し、道路の安全を確認して運行すべき業務上の注意義務があるのに、被告人は、この注意義務を怠つて本件事故を惹起した旨判示するが、この認定にも、また事実誤認があるといわなければならない。

関係証拠によると、被告人は、第二車線を先頭になつて進行し、しかも第一、第三の各車線には先行する車両がなかつたのであるから、原判決が判示するとおり、被告人車の前方に対する見通しは良好であつて、被告人が第三車線上に佇立していたという中村の姿を、その手前約四〇メートルぐらいの地点に近付くまでには発見することも可能な状態にあつたということはできようが、それだからといつて、被告人が、中村の手前約四〇メートルの地点に接近するまで、同人の姿を発見しなかつたことをとらえて、直ちに、前方不注視の過失がある、と即断すべきものではない。なぜなら、例えば動くことのない障害物が自車の進行車線の前方にあつた場合ならともなく、このような障害物が自車の進行車線以外の車線の前方にある場合、これに、接近するまで、気付かなかつたとしても、これを目して直ちに前方不注視の過失があつたということはできないからである。本件においては、被告人が、中村が立つていたという地点(第三車線内の第四車線寄りの地点)の約四〇メートル手前付近に差しかかつたところには、中村は、いまだ佇立したままの状態、すなわち、動かなかつたと同様な状態にあつたのであるから、第二車線を進行していた被告人としては、この時点で中村の姿を発見しなかつたとしても、それだけで、直ちに、前方不注視の過失があつたということはできない。まして本件事故現場付近の道路は、前述したとおり、最高速度が毎時五〇キロメートルと指定された片側四車線の広い道路であるうえ、本件衝突地点の極く近い場所には歩道橋が設置されて、横断禁止の期制がなされているところであり、本件当時は深夜でもあつたことから、車道内に歩行者が立ち入るようなことは極めて稀なことであるのに、本件における中村は、その述べるところによると、タクシーを待つため、わざわざ歩道から第三車線のしかも第四車線寄りの深い地点まで進出して、同所に立ち止つていたというのであるから、このこと自体、一般には考えられない極めて異常な行動であるといわざるを得ない。しかも、中村の佇立していたという位置は、前記のように第三車線内の第四車線寄りという中央分離帯に近い場所であるが、仮に、第二車線を進行していた運転者が手前四〇メートルぐらいに接近した際、佇立したままの人の姿を発見したとしても、その後同人のとるであろう行動としては、車両の接近に伴い、難を避けるため、佇立していた付近の車線をわける白線上にとどまるか、あるいは中央分離帯に移動するのであろうと予想するのが通常であつて、特別の事情のない限り、その反対側にかけ出してくるであろうことまで予測せよというのは難きを強いるものであるから、このような極めて特殊な状況下の右時点において、第二車線を進行する運転者に対し、直ちに、減速徐行などの義務が生ずるとまではいえないというべきである。

それ故、中村の佇立していた地点の約四〇メートル手前で、同人を発見しなかつた被告人に、前方不注視の過失があるとする原判決には、事実誤認があるといわなければならない。

そこで、進んで、所論にかんがみ、被告人の過失の有無について検討する。

関係証拠によると、中村は、第三車線内の第四車線寄りの地点に立つていて、被告人車が近付くにつれ、空車のタクシーであることに気付くや、被告人が中村の存在と動静に気付いたか否かを確認しないまま、第二車線方向に横断する形で、しかも被告人車の進路をさえぎる形でかけ出したこと、被告人が、このようにかけ足をしている中村の姿を最初に認めたときの同人の位置は、被告人の斜め前方にあたる第三車線のほぼ中ほどの地点であつて、本件衝突地点から約二・八〇メートルの距離があつたこと、したがつて中村が立つていた地点は、被告人が最初に中村を認めたときの同人の位置から、わずかに一・三〇メートル前後、第四車線寄りの地点であつたと推認できること、以上の事実を認めることができる。

右事実に徴すると、中村が被告人車の接近に伴つて、第二車線方向にかけ出したのは、中村のかけ足速度が時速一〇キロメートル前後であつたことをも考慮すると、被告人が中村を発見した時点よりほんの少し前のことであつて、被告人と中村との距離からいうと、一七・八メートルないし二〇メートルぐらいであつたということができる。

してみると、被告人が中村のかけ出した時速で同人を発見し、急ブレーキをかけたとしても、被告人車の制動距離の関係から、中村との衝突は不可避と考えられるから、中村がかけ出しはじめた時点で、被告人が中村を発見しなかつたとしても、これをもつて前方不注視の過失、ひいて、中村との衝突を防止すべき業務上の注意義務があつたということはできない。(被告人としては、中村が、かけ出した直後ぐらいに、同人の姿を発見したのであるから、他の過失も認められない。)

したがつて、被告人には、過失がないといわなければならないのに、過失ありとして有罪の認定をした原判決には、判決に影響を及ぼすことが明らかな事実の誤認があるということになる。

論旨は理由がある。

よつて、その他の控訴趣意に対する判断を省略し、刑訴法三九七条一項、三八二条により原判決を破棄し、同法四〇〇条但書にしたがい自判する。

本件公訴事実は、「被告人は、昭和五三年五月一九日午後一一時五二分ころ、業務として普通乗用自動車を運転し、東京都港区芝二丁目一三番四号先道路を札の辻方面から金杉橋方面に向かい時速約五〇キロメートルで進行するにあたり、前方左右を注視し、進路の安全を確認して進行すべき業務上の注意義務があるのにこれを怠り、前方注視不十分のまま漫然前記速度で進行したため、タクシーを停止させようとして自車進路前方右側に佇立していた中村晃(当時三九年)を約一五メートル先にようやく発見した過失により、自車を同人に衝突させ、よつて同人に加療約八か月半を要する左股関節中心性脱臼尿道断裂等の傷害を負わせたものである。」

というのであるが、さきに説示したとおり、その証明がないから、刑訴法三三六条により被告人に対し無罪の言い渡しをすることとし、主文のとおり判決する。

(裁判官 鬼塚賢太郎 櫛淵理 門馬良夫)

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